2012年11月28日水曜日

古代の暦の考え方



新嘗祭は古代日本の、新年の祭だったのではないか
暦法に関して、興味深い考え方をご紹介しましょう。

『魏略』という本があります。
三国志、魏蜀呉の「魏」の国の歴史をまとめたものとされ、清の時代、そして中華民国の時代に整理されました。

その中で、『魏志』東夷伝倭人条の逸文から引くという形で紹介されている文章がこれです。

「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」

さて、どう読みますか。
「倭人の風俗は、四季に基づく正しい年暦を知らない。ただし、「春耕」「秋収」を1年としている。」
こういう解釈を元に、古代の日本人は6ヶ月を1年として数えていた、という説があります。二倍年歴、と言われます。つまり「春耕」「秋収」それぞれを1年とする、という読み方ですね。しかし「春耕」「秋収」のセットで1年としている、という解釈もできます。ただ、そうすると「不知正歳」との整合性が無くなってしまう気もしますが…。

これでいけば、倭人の言う1年、1歳を半減すれば、ちょうど現在の数え方に合致することになります。たしかに『魏志倭人伝』に、倭人の寿命が

「其人寿考、或百年、或八九十年。」

なんて書かれているのを、50歳、45歳と読めば妥当ですね。また、『日本書紀』で神武天皇が「及年四十五歳」で東征を始め、「時年一百廿七歳。」で崩御したという神話的記述も、22歳の若き天皇が勇躍東征を開始し、国を築いて63歳で亡くなったと考えれば、何の矛盾もありません。日本に暦法が伝わったのは聖徳太子の時代少し前くらいですから、それ以前の『日本書紀』の記述が二倍年歴でなされたとすれば、不自然な寿命も何ら問題なくなるのです

二倍年歴は、古代インドや中国でも用いていたとする説もあります。私はその方面の専門家ではありませんから、確かなことは何も言えないのですが、『魏志倭人伝』や『日本書紀』の不自然な年齢表記が一気に解決する、という点では「そういう考え方もあるなぁ」という気はいたします。

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