2013年1月26日土曜日





画像は『装束図解』(本間百里・1816年)から。左下に尿筒と、その袋の図があります。わざわざ描くまでのものでもないように思えますが、案外、そういう情報ほど貴重なのです。














昨日、江戸時代の東海道五十三次の正式ルートは、愛知県西部の湿地帯を避け、熱田(宮)から桑名まで舟に乗って伊勢湾を横断し、鈴鹿山脈を越えて京都を目指す、というショートカットルートだった、というお話をいたしました

その中で、『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんも乗船しています、と書きましたが、その船内で弥次さん、大失敗をしでかします。この船旅は「七里の渡し」と呼ばれ、所要時間は約4時間。しかも船中で一杯やったりしますから、当然ながらトイレに行きたくなりますよね。しかし船内にトイレはありません。心配になった弥次さん、出発前に旅館の主人に相談しますと、一本の竹筒をもらいました。「いざとなったら、これで用を足しなさい」と言われた弥次さんは、船内で尿意をもよおすと、さっそく使用しました。ここで決定的なミスを犯すのです。

この竹筒は、先端に穴が開いていて、船べりから用を足す時の「延長ホース」として使うものでした。それを弥次さん、貯尿タンク?と勘違いして船内で使用しましたから、さぁ大変。オシッコだだ漏れで、船内大騒ぎ。皆からさんざん叱られ、いつもはひょうきんな弥次さんも、すっかりしょげ返ってしまいました、とさ。

衣冠や束帯など装束着用時、「トイレはどうするのか?」とよく聞かれます。基本的には儀式の前は水断ちをして、その必要がないように心がけるのですが、生理現象ですからどうしようもない場合もありますよね。その時に用いるのが「尿筒(しとづつ)」です。これは、弥次さんが理解したような「貯尿タンク」で、お付きの者が処理いたしました。

これは将軍家についてですが、束帯を着たときに尿筒を扱う「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)」という役人がいた、と記録にあります。鎌倉幕府四代将軍・藤原頼経の頃から「土田家」がその任に当たり、徳川家康に付き従うようになってからは「土田孫左衛門」という名前の継承も行われるようになったとのこと。

『瀬田問答』(太田南畝問、瀬名貞雄答・江戸中期)
「公人朝夕人ハ何ヲ勤仕候事ニ候哉。
答、公人朝夕人ハ、御目付支配ニテ、当時無役同意ノ事ニ承及候。此勤向ハ、御上洛ノ節ナド御供被仰付、御参内ノ節、御束帯ニテ御小用難被遊、其小用筒(銅ノ筒ナリ)ヲ持役目ナリ。已前ハ日光御社参ノ節モ御供ニテ、御宮御参詣御束帯ノ節、被御筒ヲ持候様承伝候得ドモ、是モ去ル申年御社参ノ節ハ、参リ不申候ヤウ及承候。此外勤役筋、何モ無之者ノヨシ及承候。」

『明良帯録』(蜻洲無学山人・1814年)
「公人朝夕人(十人扶持・同朋頭支配) 此場も世職、一人にて子孫に伝ふ。君辺に侍して御装束の節、御轅の跡に御筒を持也。便竹といふ。君御用道具の第一なり。俗に装束筒と云。昇路なし。」

オシッコの世話だけで「此外勤役筋、何モ無之者」とは、なんとも変わった役人もいればいたものですね(笑)。

『膝栗毛』の作者、十返舎一九さんは、尿筒話がお好きだったようで、続編の『続膝栗毛・木曽街道膝栗毛』(1815年)の中にも、こんな記述があります。

「(和尚)『その吹筒の酒うっかりと呑よったが、アゝ胸がむかつくむかつく』
(弥次)『なぜでござります』
(和尚)『ハテそれは公家衆の小便しよるとものじゃ』
(皆々)『ヤァヤァヤァヤァ』
(和尚)『そうたい禁裏の御葬送などの節、堂上方がみなもたせらるゝ完筒といふものは、それじゃわいな。あなたがたが急に手水にゆきたくならせられた時、それへなさるゝものじゃ。江戸でも青竹を火吹竹ほどにきって、大名衆のもたせらるゝ事がある。やはり江戸でも完筒といふて、小便なさるゝものじゃわいな』
(北八)『エゝ、そんなら此吹筒、もとは公家衆の小便担かへ、サァサァ大変大変』」

………。
話が少しお下品になってしまいましたので、格調高く『源氏物語』で。

『源氏物語』(常夏)
「おほみおほつぼとりにも、つかうまつりなんと聞えたまへば、えねんじたまはで打わらひ給て、につかはしからぬやくなゝり」

この「おほつぼ」について、江戸時代の解説ではこうなっています。

『湖月抄』(北村季吟・1673年)
「尿壺(オホツボ)大壺(延喜斎院式) 今案、小便筒の事也。しと筒やうの事也。」

なんというか、そのものズバリですね(笑)。
この尿筒、公家の外出時には「笠持ち」の仕丁が持参することになっていたようです。

『布衣記』(齋藤助成・1295年)
「笠の事。公家武家共以無替。晴の時白袋。けしやう皮あり。笠持常白丁也。立烏帽子。打懸着也。しと筒腰にさす也。」

さて、実は現代においても尿筒は使われました。
以前、国立公文書館で、大正御大礼における、各装束の制作数を調査したのですが、その中にこんな記述が……。

「衣冠束帯着用者ノ為メ必要ニ付
 左記物品調製相成度
  便筒 千個 」

「便筒」というのが「尿筒」のことで、このときは竹製漆塗りでした。1000個と数が多いのは、使い捨てにしたためと推測できます。大正時代でも使っていたのですね~
 
画像は『装束図解』(本間百里・1816年)から。左下に尿筒と、その袋の図があります。わざわざ描くまでのものでもないように思えますが、案外、そういう情報ほど貴重なのです。 






新暦、旧暦を一緒に見る楽しさがあります。




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